まほろば

文学と生活、その他自由に書きたいと思います。

現代における肉体的教養について

とある番組で伊集院静さんが、教育は「自分以外の人の痛みを理解できたら8割は終わり」とおっしゃっていました。これは今日の現代人に欠如している「痛み」の共感覚の問題を浮き彫りにする重要な言葉であると感じます。
f:id:upnote:20170822231430p:plain
例えば、電車内で大きな声で会話をしたり(あるいは大きなひとりごとを発していたり)、イヤホンから大きな音を漏らしていたり、ひとりでいくつもの席を独占したり、人が目の前にいても席を譲ろうという仕草さえ見せなかったり、といった例は枚挙に暇がありません。
では、なぜこのような独り善がりな行動が散見されるのでしょうか。

これらはみな「自分さえ良ければいい」という思いが隠れていると考えられます。仮に、誰かが苦しんでいても、その苦しみは肉体を超えて伝播することは決してありません。他人の痛みをわからないことには、自分が他人に寄り添うことはできません。
他方で、倫理的利己主義の立場から、人はその行為を自分自身の利害関係によって動機づけられるため、「個」の利益を最大化するように行動します。これは他者を排除するような行為を正当化する考え方につながると考えます。日本社会は民主主義を歩む中で、全体の利益のための行動が無意識のうちにマキャベリズム*1に変換されてしまったのではないでしょうか。ここでいう国家とは、家庭であり、個人であります。
現代に潜むマキャベリズムには、「個」の社会的・経済的独立のみが絶対の幸福だと言わんばかりに、厭らしい顔をのぞかせているではないでしょうか。
では、どのような行動が必要とされるのでしょうか。
もし自分のまわりにおなかを空かせている人がいれば、食料を自分だけ独り占めするのではなく、まわりの人の空腹感を理解し、食料を分配することでみんなが笑顔になります。
ここには、単に相手の気持ちを理解することだけではなく、相手との身体性の共有があります。この理解を深めるためには、自分というものを理解することを通じて他人を認知し、自分と他人の差異を認める必要があると思われます。

問題となるのは、ことに現代における「肉体的共感覚」の欠如であると考えます。文化的教養というものが現代人にある程度必要であるのと同様に肉体的教養は重要であり、ことに文化的教養ばかりを追い求めてきた日本人にとって見直されるべき教養のひとつであると考えます。
ここでいう肉体的とは、同じ時間・空間の中で、同じ体験をすることであります。体験とは、人間の原始的な感覚的行動であり、体験によって得られる感覚は何かにとって代わるということは基本的にはあり得ません。他人と感覚を共有するということは容易なことではないが、個人の体験が、その感覚を記憶することによって可能になることがある。それは時間的および空間的制約を受けることはあっても、おおよその感覚に関しては共通していると思われ、わたしたちは、その共感覚に基づいて他人の気持ちを忖度し、他人を自分に置き換えたり、合理的配慮に基づいた行動をとることができるのであります。

このような他人の気持ちを理解するということは、生涯発達において幼児期、2~3歳ごろから始まると言われています。社会性に関しては、4歳前後で身に付き始めるが、それは先の気持ちの理解を前提として形成されます。したがって、感覚の学習は、基本的には原始的体験を経るため環境に左右されないが、人間の性格の形成は、環境や遺伝子に影響されやすいため、その性格(内向型や外向型など)に基づいた行動においては感覚の形成が環境から影響を受けることがあると考えられますf:id:upnote:20170822232239p:plain

孤独な人間のメンタリズムを見てみますと、幼児期の環境が大きく影響しているのではないか、と思うときがあります。「自分は孤独だ」と考えるとき、その「孤独」の多くは、肉体的孤立ではなく精神的孤立感を意味します。その精神的孤立状態とは、自分の感覚と他人の感覚が乖離しているという認知がもたらすある喪失感であると思われます。
現代人の多くは、他人の感覚よりも自分の感覚を重視するように家庭や学校で自然と刷り込まれている節があります。それは明治以後の西洋からくる系統主義による詰め込み教育の反省でありますが、かえって行き過ぎた経験主義教育がもたらした過度な精神教育が社会における他者性を軽視しているのではないでしょうか。「個」というものは「他者」の鏡なしにはあり得ません。つまり、「個」の自律とは、他者というものの明確な存在があってその区別によって構成されます。「自分さえよければいい」という考えには、自律はおろか「個」すらかえって危うい状態にさらしているのではないでしょうか。
「自分さえよければ」ではなく「自分だけではない」と感じ取れる感性を磨き、「他人の苦痛」に寄り添える力を養い、「他人のために」行動することが自分のためであるような社会に生きる人間こそ真の教養人であると考えます。(偽物のマキャベリストは社会に利益をもたらすことはあってもそれが最善の手段だと言い切れないのはその点おいてではないでしょうか)

まとめ
現代の「自分さえよければいい」という考え方には、「他人の痛みを感じる力」が欠如している。それは明治以後の日本人が目指してきた「個」の確立がかえって「他者」を排除してしまっているのではないだろうか。文化的教養が必要なように、「肉体的教養」が必要とされると考える。それは他者と同じ苦痛の体験を通じて、共感覚を肉体的に感じ取れる力を意味し、それを養うことが必要であると考える。

*1:権謀術数。あらゆる手段、非道徳な行為も国家の利益を増進させるのであれば肯定されるという思想。

キャッチコピー

コピー大学賞というサイトがある。
award.copywriter-college.com


コピーライターや若手コピーライター向けに、そのレベルの向上やスキルアップ
ためのコンテストを開催している。
広告は企業案件であるため、一般消費者に向けられたものであるため、一般的な受けを重視している。


テーマが与えられ、それに関するキャッチ―コピーを考え、投稿するというものだ。
今回のテーマは「夏」。夏が好きになるようなコピーを考えるというものであった。

私は夏という季節が好きだ。
結局のところ自分が納得のいくようなコピーが浮かばなかったのだが、それでもせっかくなので、下手を承知で、
「また夏が来た。いつもとちがう夏。」や「太陽に負けないくらい熱くなろう!」など8作応募した。



私の好きな夏は、高校の時、五月の体育祭の練習後に河川敷で先輩方と肩を寄せ合いながら向き合ってした線香花火の、ほんのりと照らされた数十秒が何年も経った今でも思い起こされるような時間と空間を超えたところにあるノスタルジーの結晶である。あるいは、高校二年の頃に買ったばかりの原付で小学校来の友人二人とツーリングして海へ行った時の思い出である。そこにはいつもジリジリと肌を刺すような赫奕とした太陽と新調したブルージーンズのわざとらしい青と、そこに揺蕩う漂白された雲がある。その空間が時間を飛び超えていつでも記憶の中で標本のような鮮度を保ちながら未来の夏に絶え間なく心音を響かせているような気さえする。夏はそんな生命力に溢れた、獣臭い季節である。生命が快活にもなり、また同時に老衰を明瞭に示す。背反と見えた生と死が、同じ呼吸の音を響かせる・・・。そういう夏に、私は夏らしさを垣間見る。今年はどんな夏になるのだろうか。また、どんな夏にするのだろうか。




――――――――

夏 「真夏の死」と二元論

三島由紀夫「真夏の死」のエピグラフには、ボードレールの『人工楽園』の一節が使われている。

夏の豪華な真盛りの間には、われらはより深く死に動かされる」 (シャルル・ボードレール


この一節を思うとき、夏にある個別的な死と遺族とそこにある宿命性という「真夏の死」の主題に圧倒される。夏は否応にも我々に人間の生と死を投げかける。そのような夏は残酷でありさえする。しかしながら、そのような形式的な意識がかえって個別的な哀しみを乗り越える力を遺族に与えることがある。強さというものは筋肉の緊張だけではなく、弛緩した意識にも宿るのはないか、とさえ思う。夏は二元論的な季節だとつくづく思う。二元的な世界を認識する季節に、ある観念の背理から学ぶことは多いのだろう。