読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ブログはじめました(仮)

タイトル考え中。文学と生活、その他自由に書きたいと思います。

三島由紀夫『青の時代』(1950)認識と行動 

『青の時代』は、三島由紀夫(25)の5作目の長編小説である。1950年(昭和25年)文芸雑誌『新潮』7月号から12月号に連載され、同年12月25日に新潮社より単行本刊行された。三島文学の金字塔として名高い『金閣寺』あるいは、「三島」の処女作品である『仮面の告白』といった作品を知る人は多いが、『青の時代』を知っており、読んだことのある読者はあまり多くないように思われる。この作品は実際に起こった事件を題材とし、事件の首謀者たる主人公の「認識」と「行動」の心理的分析に基づきながら「行動するごとく認識する」という贋物の英雄譚を描く。


本稿では、この作品の本編及び解説を踏まえた上での感想を書き留めたい。


本作の主題は、1949年(昭和24年)11月24日に生起した「光クラブ事件」を題材として、自己反省癖と自意識過剰に充ちた主人公の孤独のかたちを描きつつ、全体の主題となる「贋物の英雄譚」を書くことで認識と行動を分析し、「行動するごとく認識する人間」を認知しようとするものである。


なるほど本作は、実際の「光クラブ事件」を素材として戦後の政治の混乱期におけるアプレゲール犯罪を風刺的に描いているものである。したがって、アイロニー性が色濃く、かつアフォリズムに富んでいる。また筆致は柔和であり、三島自身も「光クラブ事件」の概要を楽しみながら描こうとしているようにも思われる。僕はこの作品の主題もさることながら、文体が好みである。




僕はこの作品が「光クラブ事件」についての言及や分析はあまりなされていないことが疑問であった。実際の事件を扱いながらも、事件そのものに関する分析から離れ、主人公心理をプロットの軸としたのはなぜなのか。
その理由は2点あると考える。ひとつは、この原稿の〆切の時間的制約という点。もうひとつは、『金閣寺』や『宴のあと』にみられる実際に生起した出来事を題材とする形態でありながらも、作者の個人的な観念の表現を重視したために、事件そのものの内容について深く掘り下げる必要がなかったのではないかという点である。
以上は西尾幹二氏による解説(新潮文庫巻末)にあるように、前者は『愛の渇き』、『純白の夜』と執筆期間が重なっていたことやその後の作者自身の省察にみられる。(矛盾点は、この事件が時代意識の普遍性から生じたものであるならば、戦前の生い立ちを描き人格形成の個別性を後半部に関与させることに無理があると思われるからだ)


(われわれは作者自身の批評の力を借りるときに、忽ち作品自体の価値を悪く見がちだ。ネットでの『青の時代』の評価を見てみると、低評価や誤解ともとれる批評が数多く散見される。それらの評価がこの作品の主題を的確に射抜いているか、と問えば疑問に付す点が多いだろう)


作者はこの作品に自らの気質からなるべく離れ、抽象的に物語を描こうという意識で全体を知的に構成している。そのような気質は、誠が度々誠自身に言い聞かせてみせた文章に表れているように思われる。

あのお嬢さん(野上耀子)を愛して、そうして捨ててやろう。何と言う勝利だろう。彼女が物質を求めているあいだ、僕は誠心誠意、精神的に彼女を愛しつづける。そしてついに彼女が僕を精神的に愛しはじめたら、そのとき僕は彼女を敢然と捨てる。この至上命令を忘れてはならないぞ。僕が彼女を捨てる自身を得るまでは、どんぬ苦しくても、指一本彼女の体に触れてはならないぞ』
『青の時代』


第17章では、輝子の謀略とそれに伴う太陽カンパニイの破綻が描かれる。そのなかで、誠は独自の心境の虚無感と存在論を吐露する。
 

(誠)「実質って一体何だろう。柿の種みたいに、喰えないが、八年たてば実になるやつか」
愛宕)「つまり未来さ」
(誠)「やれやれ君は長生きするよ」
『青の時代』


金閣寺』の結末では、主人公溝口が金閣寺に火をつけたのち、無心で森に逃げ込み、最後の最後で短刀とカルモチンを捨てるという描写がある。自決を取りやめた溝口は、その時に「生きよう」と思うのである。三島氏の小説には生と死がよく表れる。それは戦争を「生き延びてしまった」三島氏のイノセンス(純粋性)であると僕は思う。死に対する憧憬は、一枚のコインの両面のように、生に対する誠実へとつながっているのではないだろうか。
実質とは、触れられるもの、知覚できるものである。つまりそれは現実を生きることである。生きるためには、衣食住を基本として、働き、収入を得て、一身を独立させ、家庭を持つことである。そのためには先々のことをよく考え、行動する必要がある。要するに、未来をよく考えることは生きるということである。考えるためには、物事の本質をよく認識する必要がある。

たとへば、彼は真理や大学の権威を疑つてゐない。疑はない範囲では、彼はしばしば自分でも気のつかない卑俗さを露呈する。ところが滑稽なことは、疑はない範囲の彼の卑俗さが、疑つてゐる範囲の彼のヒロイックな行動に、少なからず利してゐるかもしれない点だ。マキャベリを攻撃する彼自身が、かうして無意識のマキャベリになつてしまふ。(中略)僕の書きたいのは贋物の行動の小説なんだ。まじめな贋物の英雄譚なんだ。人は行動するごとく認識すべきであつても、認識するごとく行動すべきではないとすれば、わが主人公は認識の私生児だね。
—  『青の時代』序より


「人は行動するごとく認識すべき」というのは、人は生きるように考えるべきであり、考えるように生きるべきではないということである。この解釈には、川崎誠の「実質って一体なんだろう」という疑問が「生きることとはなんであろうか?」という哲学へを投げかける。そこに僕たち読み手は愛宕に倣って「つまり、未来さ」と生きるための処方を行動するごとく認識すればよいのである。


彼の存在は、一種の薄い膜質のようなものの助けを借りて、地上のあらゆる存在と黙契を結び、やがては高輝にまで同化するにちがいない。確かに人間の存在の意味には、存在を意識によって滅ぼし、存在の無意識あるいは無意味によって存在の使命を果す一種の摂理が働いているな違いない。
『青の時代』

ともすれば、「認識と行動を結びつけるものは、無意識あるいは無意味であるに違いない」と僕は考えた。・・・

青の時代 (新潮文庫)

青の時代 (新潮文庫)