まほろば

文学と生活、その他自由に書きたいと思います。

まほろば―本と人、映像と時代性

 まほろばとは、日本の古語である「まほら」から変化した語である。辞書を引くと、

まほろ《古》
すぐれたよい所。一説に、丘や山に囲まれた中央の土地。まほらま。まほろば。-『国語辞典 旺文社第九版』

とある。

 Wikipediaには、まほろばに関しての説明とそれに由来する文化が多くあることがわかる。

まほろば - Wikipedia

 「素晴らしい場所」、「住みよい場所」というものは、人が人生に求める最上の隠れ蓑となる場合がある。それは心理学でいう「心の安全基地」のようなものだ。隠れるということは、外部からの視線を遮断して内部は見えない状態ということである。
 まほろばを公開することは危険なことのように思われる。それは自分が「美」であると信じてやまないものが第三者の手によって処刑されてしまうからだ。自分の目から見て美しいと思えるものが、必ずしも相手の目から見て美しいとは感じられない場合がある。そのような危険を冒してまで自分の目で「美」と見えるものを他人に「見られる」必要があるだろうか?

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 このブログを書く動機の一つとして、現在の思考や感情の保存をすることで、意図しない忘却によって過去を生殺しにしたくないという思いがある。それは思考の整理でもあるし、過去の抹殺でもあるし、さらには未来への試行でもありうる。要するに、無意識から決別し、絶えず意識の中へと向かっていくための処方である。


 しかしながら、ふしぎなことではあるが、何かについて書けば(その何かがどれだけ陳腐なことであっても)他に書きたいことが浮かんでくる。しかもそれは、他の人が考えてもみない独創的なもの、発明的なものである場合がある。自分の机の引き出しには、入れた分だけのものが過不足なく入れられており、それは何度見ても変わらない。だが、思考の引き出しは、かつて入れた情報を引き出そうとする時の心の状態によって引き出される情報が変わることがある。これはちょうど、何年も前に読んだ本を本棚からひっぱりだして読んでみた時に、かつて読んだ時とは違った感銘や関興が及ぼす感覚に近いものがある。これは本が変化したのではない。本はいくら歳月を重ねようと、その内容は永久的に変わることはない。変化するのは自分であり、また、時代である。自分という存在は歳月の経過とともに肉体的・精神的な変化が生じる。また同様に、時代も時間の経過によって移りゆくものである。この場合、自分と時代の関係は、人間と環境と言い換えてもよい。この関係は双方向的である。つまり、本の解釈は読む人間の時間性と空間性に大きく左右される。また同様に、時間的・空間的な断層の切り取り方によっても異なる感興があるだろう。
 いずれにしても、読者の精神性は、時代的影響を受けるであろうし、ともすれば本の内容の解釈も時代ごとの考察があって然るべきである。僕は現代の三島論に対してそういった時評的フラグメントとしての考察を期待したい。

 これは別の記事で書きたいが、つい先日、三島由紀夫原作映画「美しい星」を観た。その中で映し出されたのは、あまりにも人間くさい家族像であったが、そのような現代へのある意味で挑戦とも見える主題の提示は興味深い。
 

 また、『三島由紀夫没後35年・生誕80年永久保存版』*1の中で、映画「春の雪」を語ると題して、行定勲監督のインタヴューが掲載されている。このなかで、行定監督は、映画の製作段階で「春の雪」の純粋性と永遠性を映画にすることを目指し、二、三、四巻と読み進めるにつれ、一巻目で広がったものが腑に落ちたと語る。しかし、プロデューサーには、「僕の感じた広がりというよりは主人公清顕と聡子の運命的な恋愛映画を描いて欲しい」*2と言われたそうで、それでこの小説の永遠みたいなものを映画の根底にして、大きな広がりを持った作品にしようと決めたと語る。
 ここには、映画にすることで制約される主題の明示と、なによりも「豊饒の海」をすべて描けないという制約が、かえって永遠という主題を強く反映しているように思われる。
 他方で、映画「春の雪」には、原作にはない百人一首のシーンがある。これは崇徳院の歌、

瀬を早み 岩にせかる 瀧川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ*3

と幼少期の清顕と聡子が読み合わすのであるが、この演出に現代における「春の雪」の成功があるように思う。脚本家は、23歳伊藤ちひろさんという、三島由紀夫が好きでいろいろと読んでいる若手の方なのだが、彼女が純粋性や輪廻転生を重視した世界にしたいと提案したそうである。

歌留多の札の一枚がなくなってさえ、この世界の秩序には、何のとりかえしのつかない罅(ひび)が入る。とりわけ清顕は、或る秩序の一部の小さな喪失が、丁度時計の小さな歯車が欠けたように、秩序全体を動かない靄(もや)のうちに閉じ込めてしまうのが恐ろしかった。-『豊饒の海』第一巻「春の雪」

二人の繊細な世界観と喪失を恐れるような心を持つ清顕をこの歌留多の札の描写を映像化することでその表現に成功している。「天人五衰」にわたるアイロニカルな「豊饒の海」ではなく、あえて「春の海」にしかない純粋性、永遠性を抽出したこの作品の映像美は、まさに「春の雪」の時代性が生きたものであると思う。

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作品解釈はこのように、時代を超えて読み継がれてきた普遍性のある文学を現代の設定に置き換えるのではなく、その時代性を生かすことで表現されなければならないと思う。

*1:「文藝別冊,KAWADE夢ムック」

*2:本書,p145

*3:川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれる。しかしまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会しようと思っている。崇徳院(77番) 『詞花集』恋・228