まほろば

文学と生活、その他自由に書きたいと思います。

キャッチコピー

コピー大学賞というサイトがある。
award.copywriter-college.com


コピーライターや若手コピーライター向けに、そのレベルの向上やスキルアップ
ためのコンテストを開催している。
広告は企業案件であるため、一般消費者に向けられたものであるため、一般的な受けを重視している。


テーマが与えられ、それに関するキャッチ―コピーを考え、投稿するというものだ。
今回のテーマは「夏」。夏が好きになるようなコピーを考えるというものであった。

私は夏という季節が好きだ。
結局のところ自分が納得のいくようなコピーが浮かばなかったのだが、それでもせっかくなので、下手を承知で、
「また夏が来た。いつもとちがう夏。」や「太陽に負けないくらい熱くなろう!」など8作応募した。



私の好きな夏は、高校の時、五月の体育祭の練習後に河川敷で先輩方と肩を寄せ合いながら向き合ってした線香花火の、ほんのりと照らされた数十秒が何年も経った今でも思い起こされるような時間と空間を超えたところにあるノスタルジーの結晶である。あるいは、高校二年の頃に買ったばかりの原付で小学校来の友人二人とツーリングして海へ行った時の思い出である。そこにはいつもジリジリと肌を刺すような赫奕とした太陽と新調したブルージーンズのわざとらしい青と、そこに揺蕩う漂白された雲がある。その空間が時間を飛び超えていつでも記憶の中で標本のような鮮度を保ちながら未来の夏に絶え間なく心音を響かせているような気さえする。夏はそんな生命力に溢れた、獣臭い季節である。生命が快活にもなり、また同時に老衰を明瞭に示す。背反と見えた生と死が、同じ呼吸の音を響かせる・・・。そういう夏に、私は夏らしさを垣間見る。今年はどんな夏になるのだろうか。また、どんな夏にするのだろうか。




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夏 「真夏の死」と二元論

三島由紀夫「真夏の死」のエピグラフには、ボードレールの『人工楽園』の一節が使われている。

夏の豪華な真盛りの間には、われらはより深く死に動かされる」 (シャルル・ボードレール


この一節を思うとき、夏にある個別的な死と遺族とそこにある宿命性という「真夏の死」の主題に圧倒される。夏は否応にも我々に人間の生と死を投げかける。そのような夏は残酷でありさえする。しかしながら、そのような形式的な意識がかえって個別的な哀しみを乗り越える力を遺族に与えることがある。強さというものは筋肉の緊張だけではなく、弛緩した意識にも宿るのはないか、とさえ思う。夏は二元論的な季節だとつくづく思う。二元的な世界を認識する季節に、ある観念の背理から学ぶことは多いのだろう。